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誇れる話ではありません。
タイトルの通りです。笑
でも、私にとっては非常に
気づきの多い出来事となりました。
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とある学校公開の日のこと
とある土曜日、息子の学校の
「学校公開」があった。
昔でいう、授業参観である。
小学校にあがって2ヵ月ちょいの息子。
通常でも月~金と通学するのは
なかなかのハードワーク。
それだからか、土曜日登校することには
目くじらを立てて、前日からブーブー
言っていた。
「なんで行かなきゃなの」
「みんなの勉強の様子を見せてよ、
その代わり月曜日はお休みになるよ」
「いやだ、せっかくの土曜なのに」
この無限ループ。
息子の質問には
極力「そういうものだから」で
返さないように気をつけている私。
だけど、学校公開は土曜日と
決まっている。仕事を持つ親も
見られるようにとか理由は
いろいろあるけれど、結局は
「そういうものだから」に尽きる・・
そんなやりとりだから、
学校公開当日になっても
息子は納得しない。
その日の早朝には、
「心が苦しくなってきた」
「心がもう限界になってきた」
あれこれ学校への不満を
持ち出してきては、
オイオイ泣く始末。
詩人wのような息子の言葉に
親も気持ちが揺らぎ、
もういっそのこと、
休ませてしまった方が
どれだけ親も子も楽かと、
頭をよぎる。
(後は大人の私たちが
世間体を脱ぎ捨てるだけだヨナ・・笑)
一緒に通学する友達との
待ち合わせの時間も刻々とせまってくる。
で、咄嗟に出た私の妥協案
「とりあえず、1時間目の
授業だけでも行こう!!」
はい・・ダサい提案です。
1時間目だけなんて
私は心にも思っていません。
なんとか行ってしまえば、
気持ちも戻りいつも通り学校で
過ごせるはずと、丸め込めようとしました・・
結果、戦略通り息子は
しぶしぶながらも登校。
親としては、ほっと胸を
なでおろしたのでした。
(所詮、小1ちょろいぜ・・)
1時間目の国語の授業も、
教室の後ろで様子を見ている限りは
とっても楽しそう。
杞憂だったのね。
積極的に手を挙げたり、
ワイワイ友達とやりとりする様子を見て、
そうそう、行ってしまえば楽しいのよ、
学校なんて、と思っていたわけです。
そして・・
1時間目終わりの
チャイムがなり2時間目は体育。
事件は始まった。
息子の意思は固かった
体操着に着替えたクラスの子ども達が
廊下に整列している中、
ガサゴソとロッカーや
机の中の荷物をランドセルに
しまい始める息子。
(・・?まさか?・・)
「お母さん、帰るよ!」
そう言って先生にあっさりと
断りを入れて、帰り始めたのです。
(まじかよ・・)
そのあっさりぶりに、
先生もあっけにとられて、
今日はそういう予定だったのかしらと
受け入れる姿勢??
(先生・・止めてください・・w)
次の授業もあるので
クラスのみんなも先生も体育館に
移動をぞろぞろと始める。
あれよあれよの間に、
ランドセル背負った息子と私、
教室にふたりポツン。
「本当に帰るの?体育だよ」
「帰るよ、だって決めたもん」
2~3回、問答を繰り返したけど、
もう親である私も覚悟を決めました。
「んな言うなら、帰ろう!
その代わり、今日は帰って
お母さん先生の授業だよ。
ひらがな書き順ぐちゃぐちゃだから。」
「わーい!」
となって、自宅に帰って3時間ほど
家庭学習となったわけです。
私の中をよぎる様々な不安・憶測・・
今回の出来事、本当にいろんなことが
頭をよぎりました。
学校ボイコットが癖になったら・・
心底学校が嫌なら気持ちに寄り添いたい・・
親としての責任は果たせてる・・
まわりからどう見られるだろう・・
などなどなど
もう本当ーーーにたくさん!
だけど、それらの自分の気持ちに
向き合い最後に残ったのは、
『何これ!さいこーーーに
おもしれぇじゃん!!』
っていう気持ちでした。
親としてどうかと思うけれど。
多分、これが息子のお友達の
話だったら、手放しにそう思ったと思う。
自分の学生時代をふと思い出した・・
私は学生時代、学校をずる休みなんて
考えたこともなく、皆勤賞だったから。
学校を途中で帰ろう、なんて選択
私の辞書には皆無だったから。
高3の時に1度、先生に仮病を使って
学校を休んだことを、20年経った
今もすごく覚えてるくらいチキンだからさ。
私にとって18年かかった
バンジージャンプを、
小学校入学のものの2カ月で飛び越えた
息子に不謹慎ながらも「大物感」を
感じてしまったのでした。
息子は2時間目以降をサボった。
だけど、普通に問題なく時間は流れている。
何なら、苦手の書き順を克服するために
家庭学習が出来ている。
学校に行かなかったら・・
私はその先に何を恐れていたんだっけ。
ここからはまだ上手に言葉にできない
――
私が18年超えられなかった枠を
6才の息子が超えたこと。
――
だけど、なんかその事実だけを
淡々と感じていたら、急激に
私の中で世の中の見え方が、
がらりと変わった。
ドリフの舞台装置が回転して
あっという間に場面転換が起こるように。
月並みな言い方をすると、
・自分が感じていた枠は所詮、
自分が握りしめていたものに過ぎない
・その枠のお陰で世の中を
小難しくこねくり回して見ていたな
っていう話なんだけど。
とにかく、
自分が今まで見ていた景色の
「額縁」がその時を機に
がらっと変わった気がした。
すると、日常の景色が全然
違うように見え始めて・・
それは本当に不思議なんだけど、
自分の内側にある、水分をたっぷり
含んだスポンジから、じゅわと水が
溢れるように幸せがしみ出す感じにも
似ている。
そんな景色なのでした。
子育っててさ、自分の固定概念を
突然、それも強制的に、いとも簡単に
ぶち壊してくれて・・
だから、私は子育てほど面白いものって
ないんじゃないかな、と日々思うのだ。